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愛の果てに咲く花 ~壊れゆく完璧な檻~
愛の果てに咲く花 ~壊れゆく完璧な檻~
Penulis: 佐薙真琴

序章:完璧な日常の亀裂

Penulis: 佐薙真琴
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-02 18:41:56

 窓の外に広がる東京の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いていた。二十八階建てのオフィスビル。瀬川周子は自分のデスクから、その煌めきを眺めながら、また一つため息をついた。

 時計の針は午後十一時を指している。周囲のデスクはすでに無人だ。静寂の中、キーボードを叩く音だけが響く。

 画面に映し出されているのは、明日のプレゼン資料。大手化粧品メーカーの新商品キャンペーン。三ヶ月かけて練り上げた企画が、ようやく形になろうとしていた。

「完璧だわ」

 周子は小さく呟いた。資料の隅々まで目を通し、誤字脱字がないことを確認する。レイアウトのバランス、配色、フォントの統一性。すべてが計算され尽くしている。

 これが瀬川周子という女性だった。

 明治大学経営学部を首席で卒業し、大手広告代理店・東都アドに入社して六年。同期の中で最速でシニアプランナーに昇格した。クライアントからの信頼も厚く、社内では「氷の女王」という異名で呼ばれていた。

 冷たいのではない。ただ、感情を表に出さないだけだ。

 仕事は完璧にこなす。プライベートも整然としている。三年付き合っている婚約者・大塚裕一は、同じ業界で働く安定志向の男性だ。来年の春には結婚する予定になっている。

 すべてが計画通り。すべてが完璧。

 なのに――。

「......なんだろう、この感じ」

 周子は自分の胸に手を当てた。心臓が規則正しく鼓動している。異常はない。体調も良好だ。

 でも、何かが足りない。

 満たされているはずなのに、どこか空虚な感覚。それは最近、特に強くなっていた。裕一とデートをしているときも、友人と食事をしているときも、この違和感がつきまとう。

「疲れてるのかな」

 周子はパソコンをシャットダウンし、バッグを手に取った。明日のプレゼンに備えて、早く帰って休もう。そう決めたはずだった。

 でも、足はエレベーターホールではなく、非常階段の方へと向かっていた。

 深夜のオフィスビルの階段は、昼間とはまったく違う表情を見せる。非常灯の薄暗い光。コンクリートの壁に反響する足音。ひんやりとした空気。

 周子は階段を降りながら、自分でも理解できない衝動に駆られていた。

 帰りたくない。

 いや、正確には「あの完璧な部屋」に帰りたくないのだ。白を基調とした清潔なマンション。整然と並んだ家具。一つの乱れもない生活空間。

 あそこに帰れば、また「完璧な瀬川周子」を演じなければならない。

「おかしいわ、私」

 一階に降り立った周子は、ビルを出て夜の街へと歩き出した。十一月の冷たい風が頬を撫でる。

 普段なら絶対に立ち寄らない路地裏のバー。『Midnight Blue』という看板が、青白いネオンで光っていた。

 周子は吸い寄せられるように、その扉を開けた。


 店内は煙草の煙と古いジャズが満ちていた。カウンターに数人の客。奥のボックス席には、一人で酒を飲む男の姿。

 周子はカウンターの端に腰を下ろした。

「いらっしゃい。何にする?」

 バーテンダーは五十代くらいの、穏やかな顔つきの男性だった。

「......ジントニックを」

「了解」

 グラスに注がれる透明な液体。ライムの香りが鼻腔をくすぐる。周子は一口飲んで、ゆっくりと息を吐いた。

 アルコールが体内を巡る感覚。少しずつ、緊張が解けていく。

「珍しいね、こんな時間に女性一人で」

 バーテンダーが話しかけてきた。

「......たまたま、通りかかって」

「仕事帰り?」

「ええ」

「お疲れ様。無理しないでね」

 優しい言葉だった。でも、その優しさが逆に周子の心を締め付ける。

 無理してないわけがない。

 毎日、完璧であろうとすることが、どれだけ疲れることか。誰も理解してくれない。いや、理解されたくもない。これが自分で選んだ生き方なのだから。

「もう一杯、いいですか」

「どうぞ」

 二杯目のジントニックを飲み干したとき、周子は視線を感じた。

 振り返ると、奥のボックス席の男がこちらを見ていた。

 年齢は三十代前半だろうか。黒いシャツに黒いジャケット。短く刈り上げた髪。端正な顔立ちだが、どこか危うい雰囲気を纏っている。

 目が合った瞬間、周子の心臓が跳ねた。

 男は微笑んだ。それは親しげな笑みでも、下心のある笑みでもなかった。もっと複雑な、何かを見透かしたような笑み。

「失礼」

 男は席を立ち、周子の隣に座った。バーテンダーに目配せして、何かを注文する。

「......知り合い、でしたっけ?」

 周子は警戒心を込めて尋ねた。

「いや、初対面だよ。でも、君を見ていたら、声をかけずにはいられなくなった」

「ナンパですか」

「そう取られても仕方ないね」

 男は肩をすくめた。バーテンダーがグラスを二つ持ってきて、男の前と周子の前に置いた。

「何ですか、これ」

「ブラック・ルシアン。ウォッカとコーヒーリキュール。甘いけど、後から来る苦味がいい」

「......勝手に注文しないでください」

「飲んでから文句を言ってくれ」

 男は自分のグラスを傾けた。周子も、何故か拒否できずにグラスを手に取る。

 一口飲んで、目を見開いた。

 確かに甘い。でも、その甘さの奥に、深い苦味が隠れている。複雑な味わい。

「どう?」

「......美味しい、かもしれません」

「だろう? 君には、こういう味が似合うと思った」

「どういう意味ですか」

「表面は完璧で甘美だけど、内側には苦いものを抱えている」

 周子の手が止まった。

 この男は、何を言っているのだろう。初対面なのに、まるで自分の内面を見透かしているような口ぶり。

「......失礼ですが、あなたは何者ですか」

「冬木柊。フリーランスのコンサルタントをしている」

「コンサルタント?」

「企業の闇を暴いたり、人間関係の問題を解決したり。まあ、いろいろとね」

 柊は曖昧に答えた。

「で、君は?」

「......瀬川周子。広告代理店で働いています」

「広告か。クリエイティブな仕事だね」

「数字とロジックの世界ですよ」

「そう言いながら、君の目は違うことを語っている」

 柊は周子の目をじっと見つめた。その視線から逃れられない。

「どういう、意味ですか」

「君は、自分が思っているほど『ロジカル』な人間じゃない」

「......何を根拠に」

「根拠なんて必要ない。見ればわかる」

 柊はグラスを置いて、周子に向き直った。

「君は完璧主義者だ。すべてをコントロールしようとする。でも、それは恐怖からくる行動だ」

「恐怖......?」

「自分の内側にある、制御できないものへの恐怖」

 周子の呼吸が浅くなった。

「君は、本当は壊れたいんだろう?」

 その言葉が、周子の胸を貫いた。

 否定しようとして、言葉が出てこない。喉が渇く。心臓が激しく鼓動している。

「違い、ます」

「嘘だね」

 柊は微笑んだ。それは優しい笑みではなく、獲物を見つけた捕食者の笑み。

「君は、誰かに自分を壊してほしいと願っている。完璧であることに疲れた。でも、自分からは崩れられない。だから、誰かに壊されることを夢見ている」

「......なんで、そんなことが」

「わかるんだよ。同じ匂いがするから」

 柊は周子の髪に触れた。その指が、ゆっくりと頬を撫でる。

 周子は身体が硬直した。拒絶すべきなのに、動けない。

·········

「......っ」

「でも、壊すだけじゃない。その破片から、新しい君を作り上げることもできる」

 柊の声は、囁くように甘く、しかし冷たかった。

「どう? 試してみたくない?」

 周子の理性が、警告を発していた。

 この男は危険だ。関わってはいけない。今すぐ逃げるべきだ。

 でも、身体は動かなかった。それどころか、柊の言葉に心が震えていた。

「......私、婚約者がいるんです」

「知ってる」

「え?」

「左手の薬指に、指輪の跡。日焼けの痕が残ってる。でも、今日は外している」

 周子は左手を見た。確かに、薬指には指輪の跡がうっすらと残っていた。

 今日、何故か指輪を外していた。無意識に。

「君は、もう答えを出してるんだよ」

 柊は立ち上がり、財布から札を取り出してカウンターに置いた。

「僕の連絡先を教える。連絡するかどうかは、君次第だ」

 柊は名刺を周子の前に置いた。シンプルなデザイン。名前と電話番号だけ。

「でも、覚えておいて。一度僕に触れたら、もう戻れない」

 そう言い残して、柊は店を出て行った。


 周子は名刺を握りしめたまま、長い時間動けなかった。

 バーテンダーが心配そうに声をかけてきた。

「大丈夫? あの人、常連なんだけど、ちょっと変わった人でね」

「......どんな人、なんですか」

「さあね。詳しいことは知らない。でも、妙に人の心を読むのが上手い。だから、気をつけた方がいい」

「気をつける......」

 周子は名刺をバッグにしまい、店を出た。

 夜の街は、さっきよりも冷たく感じた。でも、周子の身体は熱かった。

 柊の言葉が、頭の中で何度も反復される。

「君は、本当は壊れたいんだろう?」

 違う。そんなはずがない。

 でも、心の奥底で、小さな声が囁いていた。

 ··········

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