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窓の外に広がる東京の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いていた。二十八階建てのオフィスビル。瀬川周子は自分のデスクから、その煌めきを眺めながら、また一つため息をついた。
時計の針は午後十一時を指している。周囲のデスクはすでに無人だ。静寂の中、キーボードを叩く音だけが響く。
画面に映し出されているのは、明日のプレゼン資料。大手化粧品メーカーの新商品キャンペーン。三ヶ月かけて練り上げた企画が、ようやく形になろうとしていた。
「完璧だわ」
周子は小さく呟いた。資料の隅々まで目を通し、誤字脱字がないことを確認する。レイアウトのバランス、配色、フォントの統一性。すべてが計算され尽くしている。
これが瀬川周子という女性だった。
明治大学経営学部を首席で卒業し、大手広告代理店・東都アドに入社して六年。同期の中で最速でシニアプランナーに昇格した。クライアントからの信頼も厚く、社内では「氷の女王」という異名で呼ばれていた。
冷たいのではない。ただ、感情を表に出さないだけだ。
仕事は完璧にこなす。プライベートも整然としている。三年付き合っている婚約者・大塚裕一は、同じ業界で働く安定志向の男性だ。来年の春には結婚する予定になっている。
すべてが計画通り。すべてが完璧。
なのに――。
「......なんだろう、この感じ」
周子は自分の胸に手を当てた。心臓が規則正しく鼓動している。異常はない。体調も良好だ。
でも、何かが足りない。
満たされているはずなのに、どこか空虚な感覚。それは最近、特に強くなっていた。裕一とデートをしているときも、友人と食事をしているときも、この違和感がつきまとう。
「疲れてるのかな」
周子はパソコンをシャットダウンし、バッグを手に取った。明日のプレゼンに備えて、早く帰って休もう。そう決めたはずだった。
でも、足はエレベーターホールではなく、非常階段の方へと向かっていた。
深夜のオフィスビルの階段は、昼間とはまったく違う表情を見せる。非常灯の薄暗い光。コンクリートの壁に反響する足音。ひんやりとした空気。
周子は階段を降りながら、自分でも理解できない衝動に駆られていた。
帰りたくない。
いや、正確には「あの完璧な部屋」に帰りたくないのだ。白を基調とした清潔なマンション。整然と並んだ家具。一つの乱れもない生活空間。
あそこに帰れば、また「完璧な瀬川周子」を演じなければならない。
「おかしいわ、私」
一階に降り立った周子は、ビルを出て夜の街へと歩き出した。十一月の冷たい風が頬を撫でる。
普段なら絶対に立ち寄らない路地裏のバー。『Midnight Blue』という看板が、青白いネオンで光っていた。
周子は吸い寄せられるように、その扉を開けた。
店内は煙草の煙と古いジャズが満ちていた。カウンターに数人の客。奥のボックス席には、一人で酒を飲む男の姿。
周子はカウンターの端に腰を下ろした。
「いらっしゃい。何にする?」
バーテンダーは五十代くらいの、穏やかな顔つきの男性だった。
「......ジントニックを」
「了解」
グラスに注がれる透明な液体。ライムの香りが鼻腔をくすぐる。周子は一口飲んで、ゆっくりと息を吐いた。
アルコールが体内を巡る感覚。少しずつ、緊張が解けていく。
「珍しいね、こんな時間に女性一人で」
バーテンダーが話しかけてきた。
「......たまたま、通りかかって」
「仕事帰り?」
「ええ」
「お疲れ様。無理しないでね」
優しい言葉だった。でも、その優しさが逆に周子の心を締め付ける。
無理してないわけがない。
毎日、完璧であろうとすることが、どれだけ疲れることか。誰も理解してくれない。いや、理解されたくもない。これが自分で選んだ生き方なのだから。
「もう一杯、いいですか」
「どうぞ」
二杯目のジントニックを飲み干したとき、周子は視線を感じた。
振り返ると、奥のボックス席の男がこちらを見ていた。
年齢は三十代前半だろうか。黒いシャツに黒いジャケット。短く刈り上げた髪。端正な顔立ちだが、どこか危うい雰囲気を纏っている。
目が合った瞬間、周子の心臓が跳ねた。
男は微笑んだ。それは親しげな笑みでも、下心のある笑みでもなかった。もっと複雑な、何かを見透かしたような笑み。
「失礼」
男は席を立ち、周子の隣に座った。バーテンダーに目配せして、何かを注文する。
「......知り合い、でしたっけ?」
周子は警戒心を込めて尋ねた。
「いや、初対面だよ。でも、君を見ていたら、声をかけずにはいられなくなった」
「ナンパですか」
「そう取られても仕方ないね」
男は肩をすくめた。バーテンダーがグラスを二つ持ってきて、男の前と周子の前に置いた。
「何ですか、これ」
「ブラック・ルシアン。ウォッカとコーヒーリキュール。甘いけど、後から来る苦味がいい」
「......勝手に注文しないでください」
「飲んでから文句を言ってくれ」
男は自分のグラスを傾けた。周子も、何故か拒否できずにグラスを手に取る。
一口飲んで、目を見開いた。
確かに甘い。でも、その甘さの奥に、深い苦味が隠れている。複雑な味わい。
「どう?」
「......美味しい、かもしれません」
「だろう? 君には、こういう味が似合うと思った」
「どういう意味ですか」
「表面は完璧で甘美だけど、内側には苦いものを抱えている」
周子の手が止まった。
この男は、何を言っているのだろう。初対面なのに、まるで自分の内面を見透かしているような口ぶり。
「......失礼ですが、あなたは何者ですか」
「冬木柊。フリーランスのコンサルタントをしている」
「コンサルタント?」
「企業の闇を暴いたり、人間関係の問題を解決したり。まあ、いろいろとね」
柊は曖昧に答えた。
「で、君は?」
「......瀬川周子。広告代理店で働いています」
「広告か。クリエイティブな仕事だね」
「数字とロジックの世界ですよ」
「そう言いながら、君の目は違うことを語っている」
柊は周子の目をじっと見つめた。その視線から逃れられない。
「どういう、意味ですか」
「君は、自分が思っているほど『ロジカル』な人間じゃない」
「......何を根拠に」
「根拠なんて必要ない。見ればわかる」
柊はグラスを置いて、周子に向き直った。
「君は完璧主義者だ。すべてをコントロールしようとする。でも、それは恐怖からくる行動だ」
「恐怖......?」
「自分の内側にある、制御できないものへの恐怖」
周子の呼吸が浅くなった。
「君は、本当は壊れたいんだろう?」
その言葉が、周子の胸を貫いた。
否定しようとして、言葉が出てこない。喉が渇く。心臓が激しく鼓動している。
「違い、ます」
「嘘だね」
柊は微笑んだ。それは優しい笑みではなく、獲物を見つけた捕食者の笑み。
「君は、誰かに自分を壊してほしいと願っている。完璧であることに疲れた。でも、自分からは崩れられない。だから、誰かに壊されることを夢見ている」
「......なんで、そんなことが」
「わかるんだよ。同じ匂いがするから」
柊は周子の髪に触れた。その指が、ゆっくりと頬を撫でる。
周子は身体が硬直した。拒絶すべきなのに、動けない。
「
「......っ」
「でも、壊すだけじゃない。その破片から、新しい君を作り上げることもできる」
柊の声は、囁くように甘く、しかし冷たかった。
「どう? 試してみたくない?」
周子の理性が、警告を発していた。
この男は危険だ。関わってはいけない。今すぐ逃げるべきだ。
でも、身体は動かなかった。それどころか、柊の言葉に心が震えていた。
「......私、婚約者がいるんです」
「知ってる」
「え?」
「左手の薬指に、指輪の跡。日焼けの痕が残ってる。でも、今日は外している」
周子は左手を見た。確かに、薬指には指輪の跡がうっすらと残っていた。
今日、何故か指輪を外していた。無意識に。
「君は、もう答えを出してるんだよ」
柊は立ち上がり、財布から札を取り出してカウンターに置いた。
「僕の連絡先を教える。連絡するかどうかは、君次第だ」
柊は名刺を周子の前に置いた。シンプルなデザイン。名前と電話番号だけ。
「でも、覚えておいて。一度僕に触れたら、もう戻れない」
そう言い残して、柊は店を出て行った。
周子は名刺を握りしめたまま、長い時間動けなかった。
バーテンダーが心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? あの人、常連なんだけど、ちょっと変わった人でね」
「......どんな人、なんですか」
「さあね。詳しいことは知らない。でも、妙に人の心を読むのが上手い。だから、気をつけた方がいい」
「気をつける......」
周子は名刺をバッグにしまい、店を出た。
夜の街は、さっきよりも冷たく感じた。でも、周子の身体は熱かった。
柊の言葉が、頭の中で何度も反復される。
「君は、本当は壊れたいんだろう?」
違う。そんなはずがない。
でも、心の奥底で、小さな声が囁いていた。
翌週、周子の変化は周囲にも気づかれ始めた。 まず、同僚の山田が声をかけてきた。「瀬川さん、最近大丈夫? なんか、疲れてない?」「大丈夫よ」 周子は作り笑いを浮かべた。でも、鏡を見れば自分でもわかる。目の下に隈ができている。肌の艶もない。 睡眠時間が削られていた。柊からの連絡は、いつも深夜だった。そして、周子はその度に出かけていった。 仕事中も、集中力が続かなくなった。企画書を書いていても、柊のことが頭から離れない。 携帯電話が鳴る度に、心臓が跳ねる。 これは、恋なのだろうか。 いや、違う。恋ならもっと幸せなはずだ。 これは、依存だ。 周子は自分が柊に依存し始めていることを自覚していた。でも、止められなかった。 ある夜、裕一が周子のマンションを訪れた。「周子、ちょっと話がある」 裕一の表情は、いつになく深刻だった。「......何?」「最近、おかしいよ。君」 周子は動揺を隠そうとした。「おかしいって、何が」「デートをドタキャンすることが増えた。電話しても、いつも上の空。僕のこと、もう好きじゃないんじゃないか」「......そんなことない」「嘘だね」 裕一の声は、珍しく厳しかった。「君、誰か他に好きな人ができたんでしょ」 周子は答えられなかった。「......ごめん」「やっぱり」 裕一は深くため息をついた。「僕じゃ、君を幸せにできないのかな」「そうじゃないの。あなたは、何も悪くない」「じゃあ、何が悪いの?」 周子は言葉を探した。 でも、説明できることではなかった。どうやって説明すればいい? 私は、自分を壊してくれる男に惹かれている、なんて。「......私が、悪いの」「周子......」「ごめんなさ
それから一週間、周子の生活は表面上、何も変わらなかった。 毎朝七時に起床し、いつも通り出社する。クライアントとのミーティング、企画書の作成、チームメンバーへの指示。完璧に仕事をこなす瀬川周子。 裕一とも、何度か会った。いつものレストランでディナー。いつものような会話。結婚式の話、新居の話、将来の計画。 すべてが、いつも通り。 でも、周子の内側では、何かが変わり始めていた。 それは、小さな亀裂のようなものだった。完璧に作り上げられた自分という器に、ひびが入っていく感覚。 そして、その亀裂から、抑圧されていた何かが漏れ出してくる。 金曜日の夜。周子はまた『Midnight Blue』を訪れていた。 もう三度目だった。理由はわからない。ただ、あの店に行けば、柊がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。 でも、今夜も柊の姿はなかった。 カウンターに座り、ジントニックを注文する。バーテンダーは、もう周子の顔を覚えていた。「最近、よく来るね」「......ええ」「あの人を待ってるの? 冬木さん」 周子は驚いて顔を上げた。「......なんで」「わかるよ。あの人と話してから、君の目が変わった」 バーテンダーはグラスを磨きながら言った。「忠告しておくけど、あの人には近づかない方がいい」「どうしてですか」「彼は、人を壊すのが好きなんだ。特に、君みたいなタイプの女性を」「......私みたいな」「完璧主義者。自分を厳しくコントロールしている人。そういう人が壊れる様子を見るのが、彼の趣味なんだ」 バーテンダーの言葉は、柊自身が言ったことと一致していた。「わかっています」 周子は静かに答えた。「でも、止められないんです」「......そうか」 バーテンダーは悲しそうな目で周子を見た。「君で三人目だ」
翌朝、周子は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。 天井を見つめながら、昨夜のことを思い出す。あれは夢だったのだろうか。でも、バッグの中には確かに柊の名刺が入っている。 シャワーを浴びて、いつも通りスーツに着替える。鏡に映る自分は、いつもの瀬川周子だ。完璧に整えられた髪。薄く施したメイク。皺一つないブラウス。 でも、目の奥に何か違うものが宿っているような気がした。「気のせいよ」 周子は鏡に向かって呟いた。 朝食は摂らずに、マンションを出る。駅までの道のりを早足で歩きながら、今日のプレゼンのシミュレーションをする。 電車の中でも、資料を確認する。完璧だ。問題ない。 でも、心のどこかで、柊の声が響いている。「君は、本当は壊れたいんだろう?」 違う 周子は首を振った。隣に座っていたサラリーマンが、不審そうにこちらを見た。 午前十時。プレゼンルームには、クライアント側から五人の役員が揃っていた。 周子は深呼吸をして、プレゼンを開始した。 新商品「エターナル・グロウ」は、三十代女性をターゲットにした高級化粧品ライン。コンセプトは「永遠の輝き」。 周子の説明は淀みなく、データに裏付けられた説得力があった。市場分析、ターゲット層の心理プロファイル、競合比較。すべてが完璧にロジックで構築されている。 そして、クリエイティブ案。 スクリーンに映し出された広告ビジュアルは、美しかった。夕暮れの海辺で、一人の女性が鏡を見つめている。彼女の表情は、どこか憂いを帯びていて、それでいて強さも感じさせる。 キャッチコピー:「あなたの光は、消えない」「......素晴らしい」 クライアントの社長が、感嘆の声を漏らした。「瀬川さん、このビジュアルは、どういう意図で?」「三十代の女性は、社会的にも私生活でも、多くの役割を担っています。仕事、家庭、自己実現。その中で、自分自身を見失いそうになることもある。でも、彼女たちの内側には、決して消えない輝きがある。それを引き出すのが、この商品です」「なるほど......。でも、ちょっと暗くないかな。もっと明るく、ポジティブな印象の方が」 周子は予想していた反応だった。「実は、A案として、もう一つご用意しています」 次のスライドを表示する。こちらは明るい陽光の中で、笑顔の女性が商品を手にしているビジュアル。「
窓の外に広がる東京の夜景が、まるで宝石箱をひっくり返したように瞬いていた。二十八階建てのオフィスビル。瀬川周子は自分のデスクから、その煌めきを眺めながら、また一つため息をついた。 時計の針は午後十一時を指している。周囲のデスクはすでに無人だ。静寂の中、キーボードを叩く音だけが響く。 画面に映し出されているのは、明日のプレゼン資料。大手化粧品メーカーの新商品キャンペーン。三ヶ月かけて練り上げた企画が、ようやく形になろうとしていた。「完璧だわ」 周子は小さく呟いた。資料の隅々まで目を通し、誤字脱字がないことを確認する。レイアウトのバランス、配色、フォントの統一性。すべてが計算され尽くしている。 これが瀬川周子という女性だった。 明治大学経営学部を首席で卒業し、大手広告代理店・東都アドに入社して六年。同期の中で最速でシニアプランナーに昇格した。クライアントからの信頼も厚く、社内では「氷の女王」という異名で呼ばれていた。 冷たいのではない。ただ、感情を表に出さないだけだ。 仕事は完璧にこなす。プライベートも整然としている。三年付き合っている婚約者・大塚裕一は、同じ業界で働く安定志向の男性だ。来年の春には結婚する予定になっている。 すべてが計画通り。すべてが完璧。 なのに――。「......なんだろう、この感じ」 周子は自分の胸に手を当てた。心臓が規則正しく鼓動している。異常はない。体調も良好だ。 でも、何かが足りない。 満たされているはずなのに、どこか空虚な感覚。それは最近、特に強くなっていた。裕一とデートをしているときも、友人と食事をしているときも、この違和感がつきまとう。「疲れてるのかな」 周子はパソコンをシャットダウンし、バッグを手に取った。明日のプレゼンに備えて、早く帰って休もう。そう決めたはずだった。 でも、足はエレベーターホールではなく、非常階段の方へと向かっていた。 深夜のオフィスビルの階段は、昼間とはまったく違う表情を見せる。非常灯の薄暗い光。コンクリートの壁に反響する足音。ひんやりとした空気。 周子は階段を降りながら、自分でも理解できない衝動に駆られていた。 帰りたくない。 いや、正確には「あの完璧な部屋」に帰りたくないのだ。白を基調とした清潔なマンション。整然と並んだ家具。一つの乱れもない生活空間。 あそこ







